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駅伝の歴史


駅伝大会の歴史・・・それは青年団の歴史と言っても過言ではありません。

「珠洲市青年団協議会」の前身である「珠洲郡連合青年団」発足の翌年にあたる昭和22年に、第一回駅伝競走大会は開催されました。これは新憲法公布を記念して始められたもので、開催日も毎年5月3日と決まっており、小木から狼煙までの10区間で行われていました。

昭和42年、折戸から高谷のラケット道路開通に伴い以前の宗玄〜狼煙間から距離も約2倍にし、中継点も変更して「珠洲市一周青年駅伝競走大会」として全10地区の単位団の参加により行われました。

しかしその後の能登半島ブームによる観光客の激増と道路事情により5月3日の開催許可が下りなくなり、開催日の変更はやむを得ないものとなりました。

昭和50年代後半からどこの単位団も「団員が少ない、集まらない」が合言葉のようになり、この頃から全10地区団が揃わない大会が出始めました。

近年では大会の存続が危ぶまれた年もあり、現在では6地区団の参加という寂しい状況ではありますが、今年度で63回を数え、以前と変わらず青年団の、そして珠洲市民の一大イベントとして皆様に希望と感動を与える大会として継続しております。

青年団OB談
・自動車は少なく、トラックを利用して選手の配置をやり、応援団は自転車でついて走り、費用も各団持ちで大変だった。
・年度始めの行事のため各団は総力を挙げた。
・本番にはゴム底付きの足袋とランニングが配られた。選手達は区間の責任を持たされ、やる気になって舗装なしの砂利道の痛さを忘れて走っていた。
・応援は自転車で、ランナーに5、6人の応援がつき、応援旗を片手に声高く応援し、選手とともに土ぼこりにまみれていた。
・大会1ヶ月前になると練習にも熱が入り、夜遅くなるのも度々あった。選手と伴走自転車が一体となって汗を流し、苦労して走る。優勝でもしようものなら地元へ凱旋してパレードをし、頑張ってきたとアピールをするのである。まるでお祭り騒ぎであった。若者の楽しみと言ったら青年団活動とお祭りくらいだった。他にエネルギーを発散する所も少なく、それだけに一つの物事に取り組む姿勢はみな真剣だった。
・地区の期待を一身に背負い、ひたすらたすきをつなぐ青年達の爽やかな汗に、郷土の人々はこれからも惜しみない拍手と声援を送るであろう。

(参考文献  珠洲市青年団協議会 50周年記念誌)


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